"シャシン"



  毎年8月、郷里の市内で高校の同窓会が開催される。
  毎年“幹事”を引き受ける卒業生の「代」というのが決まっていて、2002年は我々第19回期生が幹事となった。

  来年は母校の創立40周年なのだという。
  その「前夜祭」的な気分もあり、そしてまたこのような催しは一生に一度に近いことでもあり……地元で生活している同期生たちは同窓会実行委員会を結成して、市内の貸店舗に事務局を構え、忙しい仕事や家事の合間をぬって準備に奔走していた。

  東京で生活している私にも何か手伝えることはないか……と考えていたら、思わぬアイデアが出されて企画として成立し、私はそれに従事することとなった。

  『創立以来40冊近くの卒業アルバムがあるので、その中から印象的な写真をビデオで複写して、母校の歴史を写真で追うようなビデオ作品をつくり、同窓会の式典で上映したい。
  またそのビデオテープを大量にコピーして、来場者に記念品として配りたい』

  ……というのである。
  私は即座に同意して、実行委員の皆の力を借りて撮影の段取りを決めた。

  同時に、卒業アルバムの複写だけでは寂しいので、市内の情景や現在の高校の内部の様子なども撮影して挿入したいと考え、実行委員に手配をお願いした。

  高校時代、一緒に8ミリ映画をつくっていた仲間が、今では熊本でテレビ局関係の仕事をしている。その彼にも連絡をとって協力を依頼した。

  その一方で、市内の写真スタジオにお願いして、スタジオの一角をお借りし、そこで卒業アルバムの複写をさせていただくことにした。


  この写真スタジオは同級生のS君の実家で、彼もご両親とともにスタジオで采配を振るっていたが、昨年5月に急逝した。
  35歳だったのか、36歳になっていたのか……そんな歳だった。
  あとには若い夫人と幼い子供が残され、夫人のお腹には二人目の子供がいるという状況だった。
  彼は二人目の顔を見ることなく、逝った。

  S君には高校時代から親しくしてもらっていたが、卒業後に偶然にも同じ下宿に入って浪人生活を送った仲でもあった。
  受験浪人……と言っても遊んでばかりで、夏にはよく一緒に海水浴などに出かけたが、彼は実家を継ぐために写真の勉強がしたいと願っており、やがて都内の写真専修学校へと発っていった。
  私も東京に本拠のある映像専修学院に進み、都内で彼と再会して、帰省の際に同じ飛行機に乗ったりもした。

  その後数年は御無沙汰だったが、彼が亡くなった知らせを突然受け取って、呆然とした。

  郷里に帰って実家の写真スタジオで精力的に仕事をしている……ということは人づてに聞いてはいたが実際には久しく会っていなかったので、どのように生活していたのかまったく知らなかったのである。
  きっとご両親とともに写真スタジオで働きながら、奥さんやお子さんに囲まれて幸せに暮らしているのだろうと思っていた。



  ―― 郷里の同窓会実行委員の皆と何回かの打ち合わせをした後、7月初頭に帰省してビデオ撮影を行うことになった。

  帰省した翌日、実行委員のO君に誘われて、S君の実家である写真スタジオに出向いた。

  店内に足を踏み入れた私は、壁に飾られた数々の写真を視界に捉えて、立ちすくんだ。

  それは、S君が生前に撮った作品たちで、中には応募作品数が一万数千という中から選ばれて賞に輝いた作品も見受けられた。

  S君のお母さんが、一冊の写真専門誌を見せてくれた。
  コンテストの結果発表が掲載されており、S君と、そして彼のお父さんが入賞していて、二人の顔写真も紹介されていた。
  お父さんは、お人柄のにじみ出た控えめな文章で受賞の感想を書き綴っておられ、S君の欄には残された夫人が代筆で、やはり控えめな文体の追悼文を書いておられた。


  ゆとりを持ったレイアウトで、店内の壁に飾られている写真たち。
  専門誌に載った、S君とお父さんの作品。

  それらをながめているうちに、ガラにもなく、言いようのない何かがこみ上げてくるのを感じて、私はうつむいてしまった。



  なんと優しい写真たちなのか。

  地元に生活する人々……近所のオジサン、オバサン。
  ちょっと、はにかんだ笑顔。絶妙の軟調効果。やや押さえ気味の、上品な発色。

  皆、普通の人々の、普通の笑顔で、奇をてらったところはひとつもなかった。
  こんなに優しい写真を、私は見たことがない。

  被写体となるオジサンやオバサンに、彼は何と語りかけて、こんなに素敵な笑顔を導きだしたのだろう?
  いつもの、屈託のない笑顔で、それでも真剣にキャメラを構えていたに違いない。
  鋭いシャッター音に相手が緊張しないように、始終にこにこしていたに違いない。



  S君は、こんなに優しい写真を撮ったのか。

  俺たちが知らない間に、こんなにいっぱい撮っていたのか。

  本当にいい写真ばかり撮ったんだねぇ。

  アンタはね、これからの人だったよ。まだまだこれからだったよ。

  もっと撮りたかったろうになぁ。

  お父さんと一緒に、もっと撮りたかったろうになぁ。

  生まれてくる子供も、撮りたかったろうになぁ。



  こんな言葉たちが、頭の中をぐるぐる回った。




  ―― 卒業アルバムの複写をする場所としてお借りした、店内の2階にあるスタジオに案内された。
  スタジオ内は、壁の面によって表面の質感が変えられ、凹凸も巧みに利用されたつくりになっていた。
  どの部分も撮影用背景に使えるように……S君のアイデアだったという。


「今でもね、そこの階段から上がってきて、声をかけてきそうな気がするのよ」

  S君のお母さんはそう言って目を潤ませた。


  そうか。
  ここには今でもS君が元気に生きているんだ。


  写真は、残る。
  彼も、残る。
  彼の残した功績はずっと後まで残り、写真の素晴らしさも、永遠に輝きを失わない。
  彼は、消えてはいない。あの作品たちや、ご家族と一緒に、ずっとここにいるのだ。



  スタジオの隅で約40年分の卒業アルバムを一冊一冊広げ、ビデオキャメラを据えて複写を始めた。
  卒業アルバムは、市内の写真スタジオが請け負って撮影、編集を行っており、年代によっていくつかのスタジオが交替しながら作っているようだった。
  作り手によって、アルバム自体の“作風”が違うように感じられた。


  複写を手伝ってくれていたO君がぼそっとつぶやいた。

「Sが生きていたら、この後の代のアルバムはSがつくったろうになぁ。いい写真がいっぱい載ったと思うよ、俺 」

  本当に、その通りだと思った。
  きっと彼は、学校行事のたびに愛用のキャメラを手に張りきって出かけ、学生たちの伸びやかな姿を優しい眼差しで、しかし的確に捉え、シャッターを押し続けたに違いない。
  きっと、素晴らしい卒業アルバムが出来上がったことだろう。


  1966年度から始まった卒業アルバムは、年代が進むにつれて掲載写真の多くが白黒からカラーへと変貌していく。

  私は黙しがちに、ビデオキャメラを回しつづけた。


(文責:宮本 拓 200208)