
……上の写真を見て、私は大爆笑してしまった。
先だってちょっとばかり帰省したおり、押し入れの奥を引っかき回していたら随分と古いアルバムを発見。ページを繰っていて、私の目に飛び込んで来たのがこの写真だ。
最初、私は人物の後ろに写っているトヨペット・クラウンに注目していた。そしてこの情景。昭和30年代、国道ですらまだ舗装されていなかった時代。こんな状況が昭和40年代初期まで変わることなく続いていた、あの風景だ……。
この風景には見覚えがある。幼児期の、あやふやになりつつあるフンワカした記憶をたどりつつ、写真の人物の鑑定を試みていた私の目は、右端のイカしたポーズをとったちょっとコワそうなあんちゃんに釘付けとなった。
これは、親父である。今年76歳。それに気づいたときの衝撃(笑撃)と言ったらない。
トヨペット・クラウンのオーナーは親父の医師仲間であるS先生で、新車で遊びに来た折りのスナップらしいことが判明した。

2枚めは昭和30年代初め、まだクルマを持っていなかった頃の親父の“往診出動ファッション”である。冬の山間部、舗装されていない凸凹道……。
「センセー、ジィサンが風呂場でひっ倒れちょっとじゃがー、すぐ来ちくんない!」
「センセー、バァサンが息しちょらんごとあっとですが!すぐ来ちくんない!」
「センセー、うちの孫が熱出して倒れっしもたー!すぐ来ちくんない!」
※以上、翻訳ソフトが無いため、内容は文面よりご想像ください。
何せ田舎なもんで、鬱蒼と茂った大木でトンネルのようになった山道を夜間ひとり往診に急ぐと、上空をモモンガが交差して飛ぶといった環境の中、ホンダの125ccにまたがって野越え山越え往診大冒険。ときには台風で川が増水して往診に行ったきり帰ってこれず農家に泊めてもらったり、凹凸の激しい路面で転倒、バイクごと畑に転がり落ちて気絶したりと結構な武勇伝を残している。

他にも何かないか……探していたら、古いクルマの写真が出てきた。親父は案外物持ちのイイほうで、一度クルマを買うと短くて7年、長くて12年は乗る。数年前まで乗っていたローレルも12年乗り、走行距離は19万5000キロに達していたが、コンディションは上々だった。手入れが良く、10年以上乗ってもキズやサビがほとんどなく、毎回、下取り価格も結構なものだったが、長く乗るぶん買い換えの回数はヤケに少ない。従って、写真の種類も少ない。
3枚めは、私が幼稚園に入るか入らないくらいの頃だと思う。親父が初めて買ったマイカー、ベレットの1600セダン。子供の頃、グスついて寝なかった私を乗せてこのクルマで町内を一周するとスヤスヤ寝てしまったという想い出のクルマだ。
後ろのキャロルはホンダ125ccに代わって往診用に使っていたもの。当時の舗装されていない山道を片道10数キロ往診していると、リアエンジンのためか土煙でエアクリーナーがすぐ目詰まりした。親父は週に一度くらいの割合で、丸いカバーを外してフィルターを取り出し、トントン叩いて手入れをしたと言う。

続いて……ちょっとわかりづらいかな? 宮本医院の車庫に収まる2代目マイカーたち。昭和40年代後期である。ちなみに遙か遠景に写っている猛々しい山が祖母山系「行勝山」である。あの中腹にある神社の神主さんは私の同級生……まぁそりゃいいか。
お尻を向けている手前の軽は初期型の三菱ミニカ。まだ360ccの時代である。その奥にちょびっと見えるのが、ベレに続いて我が家のファミリーカーとなったフローリアン1600だ。毎年夏になると、これで片道5時間以上かけて両親の郷里である鹿児島まで帰った。土日を利用して出かけることが多かったが、ガソリンスタンドが開いておらず、ガソリンを入れたポリタンクをトランクルームに収めて出かけた。あの当時、金属製タンクに入れたガソリンが気化して静電気か何かで発火、車両が炎上する事故が何件かあり、慌ててポリ製タンクを買い求めたように記憶している。
……この後、私が小学校上学年の頃に発売されたばかりの極初期型ジェミニ1600と、ほんの短い期間だけ生産された470ccミニカに買い換え、7年後に1800ccスカイラインに換えた。その後数台を経て現在は2500ccのローレルである。スカイライン以来いすゞから日産に変え、ローレルは二代目。いすゞはジェミニを最後にやめてしまったが、同社がもう少し大きなツーリングカーを作っていてくれたなら親父は今でもいすゞ党だったと思う。ジェミニはコンパクトにまとまった美しいクルマで、シンプルな丸型2灯ヘッドライトと深いメタリックグレイのボディが印象的だった。写真が残っていないのが惜しまれる。どっか探しゃああるんだろうけどなぁ。
――私は今でも、所謂“旧車”と呼ばれるクルマたちが好きだ。
現代のクルマたちは高性能で安全性も高く、取り扱いも容易で、また自然環境に配慮した設計となっているのは好ましいが、それぞれのメーカーで独自に性能を追求しているはずなのに、算数と同じく「答えはヒトツ」ということなのか、すべての性能を突きつめて設計した結果どれもこれも似たカタチになっているのがどうにも惜しい。ふた昔ほど前の、扱いにくいし安定した品質ではないものの、各メーカーが個性を発揮して生み出したクルマたちの肢体は美しく、そしてユニークだった。
そんなクルマたちの魅力にうち勝てず、1989年に自分でもいすゞ117クーペのオーナーになった。117は国産車離れした美しいスタイルのクルマで、昔は時折街で見かけると、何だか得をしたような気分になったものだ。親父がいすゞ党だった関係で子供の頃には同社のカタログが結構そろっていて、117の妖艶な姿に見とれていた。自分でクルマが持てる年頃になってみると、すでに117はとっくの昔に絶版車となっていて、専門店に頼み込んで見つけてもらった。店長がオークション会場をあちこちあたってくれたらしいのだが、状態のいい80年型を長野県の諏訪で見つけて、そこから当時住んでいた埼玉県内まで陸送して全塗装、オーバーホールして売ってくれた。117と言えば初期の丸目4灯ヘッドライト・ハンドメイドがステイタスだが、私の世代は角型ヘッドライトに親しみがあり、これで充分だった。117を買ったとことを知った親父は心底呆れたようだったが、一度フェリーで宮崎まで帰ったときには結構喜んで乗り回していた。

今でも時々、60年代のクルマのプラモを店頭で見つけて買い込んでしまうが、幼少の折りのあの記憶に残る魅力的な形、色に仕上げられるのか、ヘタに作って夢を壊してしまうのではと自分の腕前が心配で、なかなか手をつけられずにいる。作ってもいないプラモの箱が、部屋にたまるばかりだ。


★ 最後の写真は私の秘蔵のコレクション。昔、販売店がオーナーに配布していた117クーペの金属製シガレットケース・モデルである。1:24程度の大きさ。古いもののためメッキの艶が衰えており、いつか綺麗に磨き上げてやりたいと思っている。これをシリコンゴム&レジンで複製してプラモのパーツでディテールアップ、精密モデルに仕上げる計画も水面下で進行中(完成はいつになることやら……^^;)
(文責:宮本 拓 200108)