
何だか、「根付く」性格である。
私の一生のうちでの行動範囲はカタツムリなみなのではないかと思ってしまうことがある。何かのきっかけで引っ越しをするとなると、もう憂鬱で仕方がない。いっぺん腰を据えると、お店広げておおいにトッチラカシ、もう動きたくない性分である。
実家のほうも、引っ越したのは一回だけである。
親父が診療所をやっていて、大昔は山のてっぺん近くにある小学校の向かいに、市川昆監督の金田一映画に出てきそうな診療所を構えていたが、私がふたつかみっつの頃、2キロほど離れた平野部、見渡す限り畑の国道沿いに転居した。これが最初で最後であり、家族揃っての引っ越しの記憶はない。
その後、私個人の「移動」はやや激しく、高校卒業と同時に浪人生活に入ったため宮崎市内に下宿。予備校に通うと言いつつ、相変わらず8ミリキャメラを振り回し、新しく知り合った仲間たちと騒ぎ回っていた。その後は都内に本校がある映像専修学院の別室ともいえる埼玉県内の特撮学部に進み、一年間寮生活を送った。その後、あまりに荷物が増えてルームメイトに迷惑がかかるのを恐れ、ハダカ電球がブラ下がり、風呂もない六畳間に引っ越してしばらくビンボー生活に耐えた。宮崎から出てきてからの移動は熊谷近辺半径3キロ前後のエリア内を右往左往しているだけだったが、「根付く」タチの私としては苦痛の連続だった。

就職後は一軒家を借りて住んだ。「なんと豪勢な!」と言われそうだが、埼玉の奥地だったので3LDKのちっこい一戸建てを駐車スペース付きで借りても家賃は3万以下だった。信じられないローコスト! ここに5年ばかり住み、退職・フリーランスとして独立したと同時に都内へと移り、上祖師谷に落ち着いた。四畳半のキッチンにユニットバス、六畳一部屋だった。かなり手狭だったが、駆け出しの若僧フリーディレクターに経済的余裕はなく、落ち着くまで5年以上ここに住んだ。
住み慣れた上祖師谷のアジトを引っ越すことになったのは、ブッチャケタ話、駐車場の問題である。いままで使っていた駐車場がビルになってしまうとのことで、それなら部屋も狭く感じていたことだし、この際駐車場ごと手配できる、もう少し広いところに引っ越そうと決断したのである。「決めた」のではなく「決断」である。私にとって引っ越しとはそのくらい勇気のいるものだ。で、久方ぶりに不動産屋を回ったのだが……いやはや、状況も変わったものだ。どの物件もかなり安く感じられる。そこで思い切って駐車場付き2DKを借りるコトにした。北烏山、中央高速のすぐ近くである。都内に出たての頃は、こんなとこ借りたら15万か20万するんじゃないか、みたいな感覚だったのに、ナゼカ値崩れしてその半額以下。即決。本格的な引っ越しは業者サンに依頼して、その前準備として後輩に手伝ってもらって小物の荷物を運んだり、新たに家具を買い入れたりした。
室内を一巡した後輩が「いやぁ、前んとこに比べると広いですねぇ! これならいつ奥さんもらってもいいじゃないですか。ちゃんとお相手の部屋もあるし」
そこで私。「バカを言うんじゃない。そうすると模型はどこに置くのだ!」
引っ越し屋サンが来て、いちばん恥ずかしかったのは模型のストックの移動である。押し入れを開けたオジサンが目ん玉丸くしている。運んだら運んだで、工作室に当てた部屋の押し入れにすべてのストックを過不足なく収めようと、首をひねったりうなったり……。いやいやいや、そんなこたぁ、しなくていいから。しかしご本人、どーもこの山積みとなった模型をヒトツ残らず押し入れにハメコマないと気が済まないらしく、30分ばかりやいのやいのやったあげく「よし、出来た!」……出来たって、パズルじゃないんだから。押し入れを見てみたら、これがまた感心するホドぴったんこに規格バラバラのプラモの箱がピッチリムチムチにはめ込まれており、オイ! これぢゃあ、出せないじゃないかっ。しかしご本人はご満悦の様子。一応「いやぁ、キレイに片付いて助かりました」と笑顔を見せておく。
そんなこんなで引っ越し終了。別項で詳しく書いたが、ココに来てまずやりたかったのは、スチル撮影用のスペースを確保すること。キッチンの片隅に、もらいもののテーブルを据えて、機材をセッティング。まずは年賀状兼引っ越し挨拶状用写真の撮影。これが、別名キッチンスタジオでの初仕事となった。これ以降、友人たちは年賀や暑中見舞いに私からどんなミニチュア特撮写真が届くか楽しみにしているようだったが、それから数年は仕事が忙しく、そんな悠長なことはしていられなくなってしまった。工作場に中古のスチール机を入れ、コタツに向かって長時間の模型工作による腰痛から解放されたのは、新世紀になってからのことである。

(文責:宮本 拓 200103)