童心に帰って、お気楽極楽にストレス解消を……と作った模型趣味のサイトの、そのまたオマケのエッセイ・コーナーなので、あまりオカタイことを書くのもどうかとも思うのだが、時々フッと思い出しては気になることでもあるので、自分の備忘録の意味も含めて書いてしまおう。あまりメッセージ性はないケド、気になる方は読んでみてください。
……いつだったか、精密な情景模型――ディオラマを巡る論議で、「死体の表現」が話題になったことがあった。ちょうど映画『プライベート・ライアン』が公開された時期で、ストレイトに凄惨な戦闘の現場を描写した本作に刺激されたモデラーのディオラマに、戦死者を表現したフィギュアが登場することが多くなり、それに対応しての議論だったと記憶している。『プライベート・ライアン』は、戦闘の壮絶さを即物的に、直接、リアルに描写することによって観客に嫌悪感にも似た反戦意識を持って、考えてもらおうといった意図があるように思うが、それとはまた違う角度からこの作品を観て、今までに無かったリアルな戦闘シーンの描写自体に魅力を感じたモデラーも多くいたということなのだろう。
友人のQ氏はこう言った。
「人の死というのは、模型で再現出来るようなチッポケなものじゃあないと思うよ。もっと尊厳を持って扱わないと」
Q氏は模型の腕前は一流のベテランである。彼の口から出る言葉だけに「模型で再現出来るようなチッポケな……」という言い回しが強く印象に残った。また、
「いかに戦争を扱っていたって、プラモデルは本来夢のあるものなんだから、そこまで生々しいことをやってはダイナシだし、そこまでしなくてはディオラマのテーマが伝わらないと思っているのか?」
……といった意見も聞いた。
確かに、そうだとも思う。例えば、コンテストに参加したディオラマ作品等で戦死者が表現されていると、割合と単に雰囲気を盛り上げるため、リアリティーを高めるためだけに「死体」が登場し、他の戦車やジープや、壊れた家や道路標識といった“ストラクチャー”と同じように扱われているように感じられることが時々ある。「戦中派」の方々のお話をうかがうと、戦地や空襲の後には遺体があちこちに散らばり、最初のうちはかなり恐怖感を覚えたが、次第に感覚が麻痺して、遺体が日常の風景に溶け込んだ、という。そういった「感覚」を模型で再現しているのだろうか。それにしても、あまりに死体が「小道具然」としてはいないだろうか。
その反面、一部のディオラマではその戦争の壮絶さを表現するために、的確に戦死者を表現しているように思え、古典的な「戦争画」を見せられているような気がして、思わず感心してしまうこともある。
まったく相反する、何だか不思議な感覚である。
そんなことを言いながらも、我々は、例えば映画を撮る際に射殺される俳優に出来るだけリアルな演技を求めたり、血しぶきの飛び方を検討したりしている。出来上がった映像を見て、そのリアリティーに我が意を得たりと満足すると同時に、我ながらゾッとすることもある。自分や、親しい人達が実際にその立場だったら、と思った瞬間、である。
仕事柄、ある側面では「表現者」という立場に身を置かざるを得ない私は、このような問題にぶつかると、ひどく考え込んでしまう。
以前、ドキュメンタリービデオの仕事でホスピスを取材したことがあった。ご承知のとおりホスピスとは、ガンやエイズ等の難しい疾患で余命半年と診断、宣告された方だけが入れる終末医療施設で、私はここで肝臓ガンと戦う男性に会い、話を聞いた。
「隠すことは何もないし、どんどん撮ってください。撮ってもらえれば、その瞬間は自分が生きていたという証明にもなりますし……」
その人は、澄んだ目で微笑みながらそう言った。私はその人と対座して、一所懸命、その人の目を見て、視線を逸らさぬようにしながら話を聞いた。そして、彼は自分の姿が写っているこの作品を見ることが出来るのだろうか、数ヶ月先にこの作品が完成したとき、彼は生きているだろうかと考え、ひどくやり切れない気持ちになった。
しかしこのときも、「死」と今まさに直面している人を目の当たりにして緊張しながらも、それがあまりに大きな問題であるために、これは今の自分にはとても掴みきれないと言う思いのほうが強く感じられた。
――もう何年も前のことになるが、母が他界して以来、「死」というものの考え方が変わったように思う。どんな人でも、一人の人間が死ぬというのは、これはもう大変なことである。その人が一生のうちに蓄積してきた、膨大な量の情報が無に帰する。周囲の人間にとっても、その損害は、精神的な面から言ってもただ事ではない。
この歳になれば、生活のうえでいやでも「死」が身近な話題に登ることも多くなる。母親や、老衰で無くなるお年寄り、自殺した知人、病気で急死した友人……。
戦争となると、そういった「死」というものが日常化してしまう。この感覚というのは、いくら理屈で考えても理解出来るものではないように思う。それほど重大で、恐ろしいものなのだろう。
我々は戦争というものを知らない。確かに模型作りを通して、様々な文献や写真に目を通して知識を深めているわけだから、一般の人々よりは「戦争というもの」の知識は豊かかも知れない。普段の生活ではまったく馴染みのない、何だかバクゼンとした「戦争」という言葉のオブラートに包まれてはいるが、実際は壮絶な「殺し合い」で、それ以下でも以上でもなく、「ヒロイズム」なんてものは、非常に感情的な単なる「副産物」に過ぎないといったことはおぼろげながらもわかっているように思う。
幸か不幸か、私はまだ人を殺したことがないし、今後も誰かを殺す予定はない。このまま一生、そんな機会に出くわさぬように生きていきたいものだと思う。
――いろいろ考えるが、先に述べた「ディオラマでの死者の表現」について、結局私は今だに自分なりの結論が出せないでいる。実際に様々な「死」に立ち会い、見聞きしているというのに、このテイタラクである。優柔不断なヤツだと思われても仕方がないし、遠慮せずに自分の意見を言う勇気もないのかと笑われそうだが、このような問題を正面きって考えるには、30代後半の私は、まだまだ人生経験の乏しい若輩者のように思えてしまうのだ。
自分は弱い人間だと、ため息をつく。こういった問題に対して、信念を持って自分の意見を堂々と述べられる「大人」に成長できればと、つくづく思う。
(文責:宮本 拓 200011)