
朝夕がかなり冷え込む季節になっていた。
朝一番でビデオ編集スタジオに入らなければならず、早めに家を出た。駅に着いたとき、昨晩はまともな食事を摂っていないことを思い出し、ちょっとばかり腹ごしらえをしたくなった。どこかいい店は、と探しているうちに、
「おそばはいかがですかー。茹でたてのそばはいかがですかー」
という、オバチャンの間延びした声が聞こえてきた。近づくといいにおいもしてきて、迷わずノレンをくぐり、天玉そばを注文した。
すぐに他の男性客が店に入ってきた。鼻の下に手入れのいい髭をたくわえ、しゃれたスーツを着た文化人風の出で立ちだった。
彼は大きな声で、
「天そば! 汁は熱くしてね!」
と言った。
相変わらず店先ではオバチャンの
「おそばはいかがですかー」
というのどかな声が、早朝特有のせかせかとした雑踏の中へ溶け込んでいる。
突然、出された天そばをすすっていた文化人風の男性が体をよじると、オバチャンに向かって大声で怒鳴った。
「オバチャン、うるさいよ!」
一瞬、店内に沈黙が走った。
オバチャンは、どうしていいかわからないような顔をして立っていたが、店を出入りする客を案内することと、往来の人々に呼びかけることが自分の仕事だと心得ているらしく、以前と同じような調子で、
「おそばはいかがですかー」
と始めた。
男性は、再び体をオバチャンに向けると、何とも言いようのない、まるで下等な生物を見下すような目つきでオバチャンを見据えた。
カウンターの中にいた別の店員が、
「○×さん、やめなさい」
と、気遣わし気な顔で言い、オバチャンの声は止んだ。
――途端に、そばが不味くなった。
私は出入り口に比較的近い場所に立ってそばを食っていたが、オバチャンの声が特に気になることもなく、むしろその声は、朝の騒がしさから逃れて温かいそばを口にできるというのどかな雰囲気を補強してくれさえしていた。
この男性は、店内に私を含め数名の客がいることを完全に無視している。
しかも、オバチャンは彼が店に入るずっと前から店先で呼びかけをしているのだし、それが嫌ならば他の店に入ればいい。この店を選んだのならば、オバチャンの声も「店の一部」として受け入れるべきなのだ。
そして何より私は、その男性がオバチャンに向けた、あの目が気に入らなかった。
私も代金を支払ってそばを食っている以上、他人に不快な思いをさせられる筋合いはない。
私は箸を置くと男性に向き直り、他の客の迷惑にならぬよう、しかしこの男性には一語一句がはっきり聞き取れるように声の大きさを加減しながら、こう言った。
「うるさいのは、あんただよ。 気に入らねえなら、他の店で食ったらどうだ」
その男性は、こちらが驚くほどに目を丸くして私の顔を凝視した。
そして再び視線を落とすと、そばを一口すすり、足早に店から出ていった。
――しまった、と思った。とんだ失敗をしでかしたと思った。
店内は、以前にも増して、寒々とした沈黙に包まれてしまったのだ。
私はあの男性の身勝手さに不快感を覚えて、たしなめようとして口を開いた。しかし結果的には、私の行為も他の人々を不快にさせてしまったのかも知れない。他の客のそばを、余計に不味くしてしまったのかも知れない。
いたたまれない気持ちになった私は、汁を一気に喉へ流し込むと、器を置いて、
「ごちそうさま。ごめんなさいね」
と言って店を出ようとした。
すると、カウンターの中の店員とオバチャンが、偶然ではあろうが、まるで声を合わせるようにして、
「ありがとうございました。お世話様でした」
と、微笑んで言った。
照れもあったが、その笑顔が私には妙に痛かった。
この店には、もう行けないなと思った。
……私は、イナカモノだ。30代半ばにして、このテイタラクである。
都会で生きるのは難しいと、つくづく思う。
(文責:宮本 拓 200007)