"ディオラマ考"



  私には「魂の模型」と呼びたい模型のジャンルがふたつある。

  ひとつは、精密なスケール感をともなったRCモデルだ。もともと電気系統だとか、機械工作に弱い私は電動模型を敬遠していたのだが、何年か前にRC好きの方にアメリカで開催された大規模なRCモデル・コンペのビデオを見せていただいてから認識が変わってしまった。どう考えても市販品ではなく、オーナーが自分で設計した完全自作と思われる巨大なスカイレイダー攻撃機(翼長が3メーター近くあるように見えた)が、オトナ二人がかりで飛行場の隅に置かれたと思いきや、胴体各部のナビゲーションライトを点滅させ、垂直に折り畳まれていた主翼をゆっくりと展開しつつ走り出し、そのまま加速。主脚を実物と同じように90度後方へひねりながら収納して、空へ舞い上がっていった。
  本物と同じような重量感を持って自在に飛翔したかと思えば、スルスルと滑走路に降りてきて、操縦するオーナーの足もとに戻ってきたときには再びスムーズな動作で主翼が折り畳まれていた。私が抱いていた「本物っぽいカタチをしているけれど、何だかフラフラ飛んでる」というRC飛行機のイメージは見事に覆され、画面に見入っていた私は何か不思議な魔術を見せられたときのようにポカンと口を開けっぱなしにしていた。久々に、見た瞬間から心底オドロイタ模型だった。いつかはあのようなRCモデルを作ってみたいと思うが、随分とお金もかかりそうだし、知識もないし、一生憧れのまま終わりそうな気がしている。

  さて、もうひとつは「情景模型」つまりディオラマである。今回はコチラをお題目に据えて書いてみたい。
  なぜディオラマが私の「魂の模型」なのか。理由は単純で、
〇「作りたいけどウマク作れないから」
〇「ドラマを語れる唯一の模型がディオラマだから」
  ……この2点に集約される。
  私は過去に大小10作ほどのディオラマを完成させているが、どれも満足した試しがなく、また近年多くの熱心なモデラー氏、ライター氏によって開発された各種の新しい技法もほとんど知らず、自己流の不細工な方法でデッチあげている始末で、なかなか上達しない。
  特に、「ドラマを語れる模型」としての特長を最大限に生かした作品をモノにしたいと願っているのだが、これがまた難しい。
  そんなことも踏まえ、大いに自戒の意味も含めて書いてみよう。

  近年、模型誌上のディオラマ関連の記事で「ストーリーテリング」という言葉が使われるようになった。これは、素晴らしいことだと思う。ストーリー性を持った作品で、何も予備知識の無い人が見てもその内容に魅せられてしまうというのは、本当に素敵なことだ。「ストーリーテリング」という言葉自体は特に新しいものではなく、1980年代にシェパード・ペイン氏が著書『ハウトゥビルド・ディオラマ』で詳しく述べておられた。
  ストーリーテリング、言い換えれば「物語性」ということだ。これが成功すれば、非常にドラマティックなディオラマを完成させることが出来る。
  ところが、コレが実に難しい。
  「物語性」に着目すると、必然的に「演出」が必要になってくる。
  私は職業柄、この「演出」という言葉にひどく敏感になってしまう。
  仕事とホビーの話題をゴッチャにしてはまずいとは思うが、ヘタッピな自分のことを思いっきり棚に上げて敢えて書いてみようと思う。
  最近では「ストーリーテリング」をうたったディオラマ作品が多くなってきてはいるが、「演出」という重要な要素を冷静に、客観的に考えてみるに、本来の意味で「ストーリーテリング」が成功しているディオラマにはなかなかお目にかかれないように思う。
  私が考える「ストーリーテリング」というのは……

  『文章などの補足説明無しで、一目見ただけで、その人たちは今、何をしているのかがわかるだけではなく、その人たちは今、何を思っているのかがわかる』

  ……ということなのではないかと思う。
  例えばこれを解りやすいように、映画のワン・シーンに置き換えてみよう。
  「そば屋で、男がたぬきそばを食っている」というシーンがあったとする。
  ただ「そばを食っている」という情景だけならば、誰にでも撮ることが出来る。
  しかし問題は、そのシーンが存在する意味……つまり「そのそばは美味いのか、不味いのか」「男は機嫌がいいのか、何かに腹を立てているのか」……つまり、そのシーンによって何を表現したいのかがハッキリしなければ意味がない。
  これをそのままディオラマに置き換えると……
  最近では各種のアクセサリーパーツや別売ストラクチャーが充実して、例えば「エンジンを整備中のタイガー戦車と整備兵」というディオラマは昔に比べて楽に作れるようになった。しかし、「エンジンを整備している」ということは解っても、それだけではどうもひと味足りない気がする。果たしてそれだけで「ストーリーテリング」と言えるのだろうか。「その整備はうまくいっているのか、どうしても修理出来ずに整備兵はサジを投げているのか、それとも自分たちの仕事に満足しているのか」……そういったこと、つまり「その人たちは今、何を思っているのか」が見た人に伝わらなければ、本来の意味での「ストーリーテリング」とは言えないように思うのである。
  ところが、模型の工作技術が向上するにつれて、どうもこの「キモ」の部分が忘れられがちになり、コマゴマとした技巧にばかり走った作品が多く見られるような気がする。
  シツコクそば屋の話をすれば、時代背景も考慮に入れたそば屋の内装の作り込みや人物の服装などは随分としっかりしているのに、カンジンの「そばは美味いのか不味いのか」がわからない……タイガーのエンジンは超精密に出来ていて、塗装や部隊マークも完璧、整備兵の服装も実に考証が行き届いているのに、タイガーがうまく直ったのかダメなのかがちっともわからない……そんなことが、どうも気になって仕方がないのである。
  ディオラマに加えて、「ヴィネット」が注目を集めてきているが、ヴィネットの場合はこの「ストーリーテリング」の問題がより顕著になってくる。小さなベースに、必要最低限の選び抜かれたストラクチャーや車両、人物を配してささやかな情景を再現するわけだから、それこそ「一目見て言いたいことがわかる」エッセンスが大切になってくる。新聞等に載っているヒトコマ漫画、風刺画的なセンスが必要になってくるように思う。
「暑いのか、寒いのか」
「くつろいでいるのか、急いでいるのか」
「喜んでいるのか、絶望しているのか」
  ……こういったことが端的に表現されないと、物語性は表面に出てこない。
  ディオラマの主要スケールは1:35。人物の身長はわずか5センチ程度しかなく、それで「ストーリーテリング」を完成しうる「演技」を表現するというのは大変難しいことではあるが、だからこそ挑戦しがいもあるし、様々なアイデアの見せ所でもある。

   もちろん、すべてのディオラマに「ストーリーテリング」が必要だとは思っていない。完成した車両を展示するのに、ちよっと気の利いた地面が欲しい、かっこいいフィギュアを添えて魅力を引き出したいということもあるだろうし、戦場の記録写真に刺激されて、何気ない当時の状況を再現してみたい、といったこともあるだろう。そんな場合は「ストーリーテリング」よりも車両自体の模型としての魅力や、全体の雰囲気、作品としてのまとまりの良さが評価の対象とされるべきだと思う。
  ただ、ひとたび「ストーリーテリング」という言葉を使ったならば、車両やフィギュアの服装等の考証、作り込みといったことだけではなく、それと同等に力を入れて「物語性」を検討すべきではないか、と思う。

  ――前にも述べたとおり、私自身、ストーリーテリングの面で満足できるディオラマ作品はほとんど作れないでいる。なかなか難しい。しかし挑戦しがいはある。いつかは、「見た人が、思わずナミダしてしまうディオラマ」なんてのを作ってみたいと思っている。そんなこんなで、私にとってディオラマは「魂の模型」なのである。

(文責:宮本 拓 199904)